2011/08/31

魔法

アパートまでの道のりを私はゆっくりと歩いた。
見慣れた商店では夕食の献立に頭を悩ませているのであろう女性たちが黙々と品定めをしている。

角を曲がると、入り口に藤棚のある茶色い外壁のアパートに辿り着く。
真夏の太陽に照らされて青々と輝く緑に、季節の移り変わりを感じずにはいられない。

その下を通って真っ直ぐ中へと進み、エレベーターは使わずに5階まで階段をゆっくりと昇りながら鞄の中を探りキーケースを取り出した。

クリーム色のドアの前に立つ。
キーケースの中から半年振りに選び出されたその鍵は、私の手にしっかりと馴染む。

ドアを開けると新しい風が吹いて来て、私は迷わず中へと足を踏み入れた。

すっかり片付けられた部屋、窓は開け放たれて心地良い初秋の風が私を宥めるように柔らかく、心の隙間を次々に通り抜ける。

玄関には雑誌の束が白いビニール紐で縛られ乱雑に置かれていた。
私は彼の細い腕のしっかりとした筋肉のことを思った。

かつてのリビングルームの片隅には、いつか彼が描いてくれた私の絵が額縁におさめられてあの頃のまま輝いている。
それは22歳の誕生日に彼から貰った私の宝物で、一生手放すことは無いはずの魔法だった。

リビングルームの奥にある書斎だった部屋に入ると、フローリングの床の上に置かれたコーラの空き缶がぽつんと音を立てた。
その縁では、煙草の吸い殻が風に揺れて小さく踊っていた。

彼は何も無くなったこの部屋で何を想っただろう。
もう遠く未来のことを考えているのだろうか。
それとも、絶望している?
恐ろしい記憶がよみがえってきて、こわくなった。
彼には生きていて欲しい。
幸福を感じて欲しい。
そんなこと思う資格なんてないのかもしれない。
彼は泣いて謝っていた。
どうしてこうなってしまったのだろう。

これから始まる新しい生活に甘い期待を抱いていたあの頃に戻ったようで、涙が溢れた。
ここに居てはいけない。
足早に玄関に向かう、もう何も思い出したくなかった。

玄関のドアの前で振り返り、もう一度部屋を見渡した。
この部屋には何の思い出もない。その代わりに積み重ねられた感情も、今はもうどこかへ消えた。

私は靴箱に残しておいた黒色のローファーを手に取ると、持って来た紙袋に入れてこの部屋を去った。

キーケースから鍵を取り外し、ポストに溜まった郵便物の下に隠した。

あの部屋に残された私の絵は、彼の手によって捨てられるはずである。
その時が来たら、彼は私のことを思い出すのだろうか。
あの頃の自分の気持ちを認識するだろうか。
涙なんて、流すだろうか。あの日とは違う涙を、流すことが出来るのであろうか。

私にかけられた魔法は、随分前に解けてしまった。

2 件のコメント:

  1. 景色が目に浮かぶね。ブログ更新楽しみにしてます。

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  2. >>yuiさん

    ありがとう。
    妄想力には自信あり。(笑)

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